奇跡の【薩長同盟】、それ以前に手を・・・

NHKの大河ドラマ『西郷どん』(西郷さあ)、今日は、日本史上、奇跡的な【薩長同盟】だった。
西郷隆盛(吉之助)公を、調べていても、確実視される写真が無く、長州藩の桂小五郎公、薩摩藩の大久保利蔵(利通)公、土佐生まれで両藩の仲介役をした坂本竜馬公(日本人)のように、イメージがしにくい方(大人物すぎる)でしたが、今回の大河ドラマでは、それを少しだけイメージしやすいものでした。出演者の方々の演技も上手い。

そして、ここに3つの横穴式の墓があります。

大江広元公(源頼朝公の側近・長州毛利家の先祖)と、島津忠久公(薩摩島津家の先祖・源頼朝公の子と私は思う)。そして、大江広元公の4男、毛利季光公のお墓が。

島津忠久公と、大江広元公のお墓は、日本が世界に誇る【明治維新】を成し遂げた原動力である、【薩長同盟】が結ばれる以前のもの。なんて仲睦まじく。

つまり薩長同盟以前に、ここ鎌倉の源頼朝公の墓の近く(法華堂跡)に、この墓(やぐら)は存在していた。詳しくは、この方のものが詳しい。(鎌倉手帳・寺社散策)

鎌倉市の案内板にも、【薩摩藩・長州藩ゆかりの墓が並ぶ法華堂跡】として。

現厚木市の毛利台一帯を賜った、毛利季光公は、長州藩毛利家の祖として仰がれ、

また、薩摩島津家の祖、島津忠久公は、源頼朝公の落とし胤とささやかれますが、まだ若き彼が薩摩へ下向される際に、多くの武士が同伴して守ったが、その中でも畠山重忠公自らも、その時代では、かなり遠方地域と思われる薩摩へ、筆頭として随行している。

この力の入れ具合から考えて、どうみても、島津忠久公の血筋がただならないことが解る。

そして、こちらが両家と極めて関係の深い、源頼朝公のお墓。(江戸時代に荒れていた墓を薩摩藩が復興。流石は残った直系としての篤い思慕・鎌倉市の市章の元になっている彼の家紋 笹竜胆 ささりんどうが、源氏の棟梁を表すべく刻まれています)

武士の世を創った源頼朝公、そして、薩長同盟の後、徳川慶喜公が大政奉還して、700年弱も続いた武士の世の幕を閉じるまでの長期間、因縁というよりは奇跡的いや必然的なものを感じずにはおれません。

その間も、徳川の東軍と、豊臣の西軍と、関ヶ原で争い、西軍側に付いていた毛利家と、島津家(特に島津義弘公)は、領土を大きく割かれ、かつての中国地方、九州地方を最大版図とした両藩(両家)としては、手痛い負け戦。しかし、残って、彼らの子孫が、日本国の新たな歴史の幕を開けた主役に。

徳川家康公が、静岡県久能山東照宮に、甲冑を付けて仁王立ちのまま、西側を向きながら、埋葬されましたが、彼は遥か先が見えていたのか、徳川家の敵は西からやってくるという想いから、死してもなお、自らがその護りをしていた点も、超人的。

彼等には、先が良く見えていたのか、天 がそうなるべく歴史を創っていたのか。

いずれにしても、薩長両雄が仲良く手を結んでくれたおかげで、今の我々が生きていることを感謝致します。西郷隆盛公に血以上のものを継いだ島津斉彬公、佐幕派の反対を押し切って、政権をあっさりと返してしまった徳川慶喜公、そして当時の言葉で天子様(天皇陛下)に感謝の念が堪えません。