日本が誇る軍才、源義経公が通った【二枚橋】

世界各国で、【軍才】と呼ばれる方は、多々いますが、平安時代末期~鎌倉時代初期にかけて、活躍された源義経(みなもとの よしつね・武家政権を18511年に武家政権を打ち立てた、源頼朝公の腹違いの弟)公は、日本史上、知り得る限り、間違いなく【軍神】であり、【戦の神】的存在として、君臨しております。

そして、ここは神奈川県川崎市麻生区高石3-32にある【二枚橋】。

世田谷区三軒茶屋を起点に狛江、登戸、生田、柿生、鶴川、橋本を通り、津久井方面へ向かう津久井街道(津久井道・世田谷通り)沿いの小田急線よみうりランド駅と百合ヶ丘駅の途中を、よみうりランドのある峠を越えて、鶴川街道に交わり、多摩川橋を渡り、調布、深大寺を抜けて、北方へ抜ける重要幹線上にあります。南進すると、琴平神社・王禅寺を抜け、早野、青葉台~横浜環状4号線を通り、そのまま戸塚区俣野から、鎌倉まで一気に突き進める(瀬谷駅あたりで、瀬谷柏尾通りを、通っても鎌倉市の北鎌倉に抜け、鎌倉へ行ける)今でも交通量の多い重要幹線上に、二枚橋はあります。

兄、源頼朝公が、石橋山で挙兵した際には、追って、東北は岩手県平泉から、駆け付けた通過点だった。

一番古い【鎌倉中の道・あとから鎌倉下の道、鎌倉上の道が整備された】沿いの、我々旭区民は、南北に走るこのルートで、調布、武蔵国分寺、武蔵の行政拠点だった府中方面へ向かいます。

高石町会の看板が掲示されています。

二枚橋の由来

 治承四年(1180年)の空き、源頼朝が平家を滅ぼそうと旗上げをした折に、弟の義経が奥州の平泉から弁慶や伊勢の三郎・駿河の次郎たちを従えてかけつける途中ここを通りかかり当時の橋が粗末なものであつたので、弁慶たちが馬も通れる橋に造りなおした。
その橋は丸太を並べた上に土を盛ってあり、横から見るとのし餅を二枚重ねたように見えるので二枚橋と名付けられた、という言い伝えが残っている。

 高石町会


富士川の戦いで、戦もせずに敗走した平氏軍から始まり、
京都をおさめ、鵯越の逆落としで有名な一の谷の戦い屋島の戦いで、奇襲を交えた論理的戦法で勝ちをおさめ(この時に、今後を占う平家方の船に掲げられた扇を見事に射落とした那須与一が有名)実質上の源氏の勝利を固め、壇ノ浦の戦いで、瀬戸内海の村上水軍も味方して、1185年に平家を名実共に滅ぼした。

時の勢いはあるにしても、アウェイ・西国に拠点を持つ【平家】を、滅ぼした戦ぶりは、まさしく源義経公なくしては勝利できなかったことは間違いない。

その後、あらゆる説が唱えられていますが、兄の頼朝公が義経公を弑してしまった(そうせざるを得なかった)事実は、悲しい歴史です。

判官びいきの日本人が、その後、源頼朝公が、日本海を渡ってチンギス・ハーンになったという話がまことしやかに語られていますが、彼らが居なかったら、実質的な武士政権は作られなかったし、その後に続く、戦国時代・江戸時代に、奥州列強からの植民地政策を逃れることは出来なかっただろう。

日本の歴史的転換期(今の日本への過程)を作り上げた、源頼朝公・源義経公兄弟には、尊敬の念に堪えません。