清々しい風の吹く、篠原八幡大神

新横浜のすぐ近くの尾根伝いの頂上に篠原八幡大神(篠原八幡神社)はある。

さすがは、最近はやりのパワースポット、日本神社100選に選ばれるだけの場所に鎮座。

この境内を中心に四方八方に降りていかれる。篠原町にあるが、近くに富士塚という地名がある通り、周囲を見渡せるやや急峻な頂に。(ここは、かつての重要路線 鎌倉街道下の道沿いです)

雨で洗われた夜の神社、案外好きなんです。

厳かなる空気が流れている。

清々しい場所の長男と一緒に、立派な造りの拝殿でお参り。
(江戸時代天保6年に再建された際の構造体らしい)
お参りしている際に、神様が降りて来られた合図(ざわざわと音を奏でて風が吹きました)がありました。

菊名駅周辺(篠原町・篠原・富士塚・錦が丘・大豆戸町〈まめど))のお客様の打ち合わせのあと、気持ちを落ち着かせるため(サボる)に、何回か参拝させてもらっていました。

 

この角度は当然素敵ですが、

神様がいらっしゃる社殿からの拝見も素敵です。

1192年(建久三年)に鶴岡八幡宮から勧請された際は、かつての村名 橘樹郡鈴木村字 会下谷に(鶴崎八幡)。
寛永八年(1631年)か、寛文七年(1667年)に、橘樹郡鈴木村字表谷(現地)に、そして若宮八幡。そして村名が篠原村に変わり、篠原八幡大神に。

鳥居脇の大ケヤキは、以前からありますが、20数年経過して、大きくなっているのに、道がそれを避けるように、細くつぼまっています。それを、文句を言わないこの篠原周辺の方々の、崇敬の気持ちが伝わってきます。


この一等地、気になりました。
何故、頼朝公の鎌倉時代から、この地にわざわざ鶴岡八幡宮から勧請を請けた、由緒正しい八幡神社なのに、元からこの地に神社が無かったのかが気になりました。鎌倉街道下の道沿いなのに。

少し調べてみると、すぐ近く新横浜駅よりに篠原城(金子城とも)跡があります。
どちらの地も鶴見川とその支流に挟まれた、護るに硬い地形。西暦1200年前後は小氷河期の間氷期で、海水も、川の水量も多かった。
もう少し離れて元は滋賀沙沙貴神社・佐佐木大明神を本貫とする宇多源氏の名族佐々木一族(後の六角氏も)の城(館)跡がありますが、少し離れている。

篠原城の歴史は、戦国時代後北条氏の小机城の支城とされている立派な造り。
そして、そこを治めたのは武蔵七党、桓武平氏村山党の金子氏(埼玉県入間市出自)ですが、平安時代末期まで遡ってみると、金子家忠という武士の鏡的人物が、浮き上がってきた。
金子家忠は、源頼朝公の父、源義朝に従い、保元の乱を戦い、平治の乱では、源義平(異母兄)に従い活躍し、頼朝公が立ち上がった際には、この地が畠山重忠公と共に、三浦義明攻めで、21本の矢を受けつつも一歩も退かず、その後すぐに、重忠公とともに頼朝公に馳せ参じ、源平合戦で多くの働きをした武将。

この当時のこの地は、武蔵国橘樹郡。武蔵総検校の畠山重忠の従兄弟である、稲毛重成(川崎市を中心に鶴見区、神奈川区、港北区の一部を領有)の地であるが、この当時は、全てが所領なわけではなく、そこかしこに他の豪族と混在していた。(稲毛重成の兄は、町田市、青葉区、都筑区、港北の一部を領有した小山田有重・弟は旭区・保土ケ谷区と周辺を領有した榛谷重朝)

榛谷重朝の地、旭区善部町にも有力御家人和田義盛の別地あり。遠方から【いざ、鎌倉】で、走ってくるにあたって、休憩の地であり、中心地鎌倉の情勢を集める土地でもあったことでしょう。
同様に、入間市の本貫地から、鎌倉までの道程は長い。その中間地(鎌倉街道沿い)に、彼の別荘的館があったとしても不思議ではない、しかも、周囲が一望でき、急峻な土地ゆえに、いざ時に、取り急ぎ、城的館として、護ることも容易。
つまり、現在、篠原八幡神社の土地に金子家忠の館があったとしても不思議では無い。
彼は、鎌倉幕府征夷代将軍源家三代に仕えていますが、執権北条家の時代になって、その力を弱められ、鎌倉街道下の道という重要駅路から外されたのではないだろうか。
その代わりに、篠原城を築城したのか、支城的立場だった現篠原城を改築したのか。

室町期は、関東管領上杉家の争いの中で、その後、戦国大名後北条家のなかで、生き抜き、江戸時代も、そして現在も港北区では金子氏は多い。また旭区にも多い。源義経と共に源平合戦でも活躍しているので、伊予新居、播磨鵤荘他にも恩賞として土地を拝受し、地頭職も得ている。当然武蔵国金子の土地も。

以上は、私の勝手な仮説です。