私の子供に生まれてくれて、ありがとう

7ヶ月前に、眠っている間に突然死した、最愛の長男【輝竜】。

残された妻、二人の弟妹を守り抜くためにも、強くあらねばならなかった私。

※ガラス越しの撮影だから、君が行基菩薩様の中に、入り込んで写っているぞ。

 しかし、時間の経過とともに、必死に堪えてきたものがこみ上げてくる。なぜだか、涙が頬を伝う。とめどなく。

 それだけ、君自身が大きすぎた。私の子供としては勿体ないくらいに、立派だった。それなのに、私に合わせて色々と教えてくれ、私が行きたいところ、君が行きたいところへ、共に連れ添って、【感銘】【感動】【考察】を共有してくれ、お互いに高め合っていた日々。

 それは、26歳年長の私にとっては、私が生きている限り、さらに楽しい日々を送ることができ、私の死の間際には、君が居てくれると信じて疑わなかった日々が一瞬で壊れた。

 よく、昔から言われている「親よりも先に死ぬのは、一番の親不孝」の言葉が、ふとよぎる。また、「子供を亡くすことは、将来をなくす」とも、言われている。

 半年が過ぎて、ようやく君の遺品の一部を開封することができるようになった。
この写真もそうだ。東大寺の建立で有名な行基菩薩様を、君は必死に追いかけていたね。
宿代を浮かせるために、大阪で1,500円で泊まれる場所を拠点に、よく行基様の後ろ姿を追いかけていたね。

 行基菩薩は、ただ仏教を布教するだけでなく、人々の生活を少しでも豊かにするために、感慨工事を至るところで、指導してきたと、君からは聞いていた。

 だから、君が葬祭業で忙しい傍ら、休みの時に、「排水促進作業があるんだよ」というと、ムックリ起き上がって、必死に汗水垂らして、土を掘り返していたよね。

 遺伝子って、すごいと思った。旭区上川井の長源寺(行基様が開祖と伝えられる)が、荒廃した際に、小川名家のうちの祖先から、室町時代に【實圓・じつえん】様が、このお寺を再興し、今に至っている。つい最近では、近衛兵として、宮城(皇居)を守った爺様の弟様が、戦局の拡大と共に、盧溝橋事変においても出動し、最後はミャンマーで亡くなられたこと、爺さんも含めた他の小川名家で亡くなられた方々を調べ上げて、追悼してくれた。【日本国】のために、亡くなられた方々を忘れ去られそうな現代に蘇らせてくれた。日本人のほとんどが、したくてした戦争ではなかった。日清戦争も日露戦争も。そこに屍を築いてまでも、女子供のために、我々子孫のために、血を流して守って下さったご先祖様を、君は現代に復権させてくれた。

 君が尊敬し、掘り返してくれた過去のご先祖様、行基様は、自己中心的な考えでなく、皆、「利他の精神」に溢れていた。

 身長188センチの私は、君に常々頼んでいた。私が死す時は、安い棺桶でよいから、屈葬にならない大きなものを、さらに、狭苦しいのは嫌だから、2トン車か、大好きなサニートラックを霊柩車代わりに。そして、横浜で唯一大きな人を火葬できる北部斎場で焼いてもらうことを。
それが、逆になっちゃって、心の中ではどうにも抑制がきかなかった。

 唯一違ったのは、190センチの君でも、真っ直ぐに乗れる車が、あった。初めて乗っただろう外国車、キャデラックだった。助手席に乗りながら、アメ車のなかでも好きだったキャデラックも良いもんだなと。私もこのキャデラックで送ってもらいたいな。質素が好きな私ですが、死に際くらい、輝竜と同じがいいな。

 君はね。我が輝竜はね。親不孝者では、決してない。逆に、子育てがまだ未熟だった我々にしては、出来すぎる立派な子供だった。過去の人になったから、息子の君を両手離しで褒めることができる。我々の子供に生まれてきてくれて、本当にありがとな。心中は辛いけれど、感謝の思いの方がとても強い。23年間も。
 
 君が欲した『あの世』には、行けたと信じて止まない。それだけ、親からみても、君の精神性は非常に高かった。見ちゃったよ。『輝竜菩薩』と、書いてある紙を。大した自信だな。そう信じたがごとく、今頃行基菩薩さんの下で、勉強中だろうよ。楽しかんべ~。

 このくそ親父は、近頃「老いた」と、君の弟妹に言われている始末だけど、『舐めんじゃねえぞ!この小川名輝明を』という気持ちにもなっている。世のために頑張って、とっとと死ぬことばかり考えていたけど、今は考えが少し変わった。
 まだまだ足りないながら、『世のため』を叶える夢を、夢で終わらせずに、ある程度の基礎が出来たら、頑張って君の居る世界へ向かいたい。すべての生き物が迎える【死】を、少しでも自分自身が目指している次元へ近づいた状態で、夢の途中で・・・。