東国三社のひとつ、息栖神社

息栖神社(おきすじんじゃ)
1月8日に伺ったため、まだお正月の雰囲気は残っていました。

ここで、気が付いた点:
神奈川県、東京都等の私が訪問してきた神社と違い、この息栖神社では、2杯2拍手1杯の最後の1杯(1礼)時に、かなり長い時間をかけて、何かお願い事をしている節の方々が、ほとんど。(私的には、自然の懐の深さに感謝しているので、この神社における長い時間は、非常に嬉しかった)

無料の駐車場(すべてが無料)に駐車して、向かっていく道すがら、【東国三社 息栖神社】と誇らしげな看板。そそりますね。

鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の三社で、東国三社と呼ばれているようです。

この息栖神社は、西暦807年にこの地に移転したようですが、元は応神天皇(4世紀後半~5世紀初頭)の時代には、既に実在していたらしい。

霞ヶ浦、西浦から、利根川に出る寸前の場所に位置し、古くから漁業はもちろん、船における交易面で特化してようです。

この地域は、歴史的・日本的・天皇家的にかなり深い意味を持った土地と考えざるを得ない。

古代の天皇家ゆかりの意味から与えられる称号の、【神宮】は、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮の三社しかない。伊勢神宮は、鎮座する場所を巡って現在の伊勢にとどまり、時代的は、鹿島・香取両神宮の方がだいぶ古そう。そして、三社のうちの2社もが、かつては東戎と言われたこの東国(関東)に、そしてその二社が目と鼻の先の土地に存在している。今現在も。

河内・奈良王朝が栄える中、文献は無いけれど、関東王朝があったとされる説、或いは天皇家の大元がこの辺りの出自という可能性も、どうしても否定しきれない。

国譲りしたとされる出雲大社の大国主命が、西側へ向かって鎮座しているという話。
鹿島神宮では、タケミカヅチ(或いは力のある神官)が、東へ向かって鎮座しているという話。
太陽のありがたみを感じて、東の鹿島で日の出を奉り、西の出雲で日の入りを奉って、太陽が出ている間を大切にしていたという思考法が、考えられる。

八百万の神々として、万物を、神々として敬い、太陽をお天道様としてあがめ、同時に、月夜見命(ツクヨミ)をもってして、太陽が没した後も、一方だけに偏らず、アニミズム的な原始的(根本的)な畏怖している点も、今も現存する日本的な考え方に、畏敬の念を感じずにはいられない。
かつての他の地域も、こうしたアニミズム的要素はあったようですが。ただし、歴史的背景・地政学的要素・気候・土壌的要素によって、変化していっただろう過程は、今はやりの【多様性】という言葉で解釈できますが。

順番が逆になりましたが、息栖神社の鳥居。

反対に目を見やると、あちらにも鳥居。

近づいてみると、鳥居の向こう側は、波を避けるかのような船着き場らしき小さな湾。


忍潮井(おしおい)と呼ばれる、男瓷(おかめ)と左側に女瓷(めかめ)

男瓷。
ここにも鳥居。水に潮に浸されて。

川の堤防から見ると、こちらが正面一の鳥居と分かります。

小さな船が並んでいるとことをみると、ここが船着き場であり、本来のお参りの際の交通手段が、船だと感じさせてくれます。

古い写真と共に掲示されている看板には、
【息栖の津・渡船場跡】と。

利根の沖より見た 息栖鳥居河岸 と案内された、昔の景色。

木製鳥居でしょうが、周囲の建物の造りといい、雰囲気がありますね。

神門の内側に、奉納されたらしき大きな碇が保存されています。

江戸時代には、江戸と東北を結ぶ拠点であり、無事なる航海を願った神社でもあったようです。

錆びの進行のためか、下部は僅かに原型をとどめている状態です。

堤防(築堤)に開けられた水門から、船が出入港しているようです。

堤防の先は、満面と水に浸された穏やかな川。

水鳥が小さな波にまかせて、佇んでいます。

反時計まわりで戻ってきて、女瓷(めかめ)があります。

鯉か、大きくなった金魚が、清い水の中を悠々としていました。