高校の恩師に共感した、【地元】への想い

我が母校、神奈川県立希望ヶ丘高等学校:旧制 神奈川中学。通称・神中、神高。
(中学時代は、勉強で一番になりたくて、ガムシャラに勉強して、当時の横浜西部学区トップの希望ヶ丘高校に専願で入った。入学後は、お仕着せの勉強に飽きて、馬鹿三羽ガラスの一角に。ちなみに、その三羽はそれぞれに独立性を持って、好きなことをやっている。自分の人生:最終的はは自律自制・自学自習)


『如何に、授業を抜け出すか』ばかりに、注力し、一方で、記念祭(文化祭)をどれほど楽しんだことか。

しかし、私がそんな中でも、人生を変えてくれた歴史の先生、牛〇先生が居た。

いつも、講義は『フランス革命』ばかり。
《その先生は、しょっちゅう、ロベスピエールがね・・・》を、毎回のように話されていた。
この先生も、希望ヶ丘高校出身で、同じようにこの学校卒業された、人間味溢れる面白い先生が、多く存在していた。おかしな高校だった。


将来に、何のあてもなく、適当に学生生活を送っていた頃、その愛すべく先生が、話してくれた。

私は早稲田大学出身だけど、同級生に、凄い奴が居たと。

『早稲田大学の政経学部出身なんだけどね。彼は、在野を目指した。
何かって?
エリートの道がありながらも、彼は、自分を育ててくれた地元への恩返しのために、佐賀県の親父さんの魚屋さんを継がれた』んだと。

まだ、17歳頃の私には、極めて新鮮な話だった。

皆が、護送船団のように、知名度の高い大学を出て、一流企業を目指すことが、まだ当たり前の時代だった。
私も、サリがニ採り、クワガタ採り、草野球、はさみっこ、缶けりと、この旭区で大いに育ててもらい、その当時が一番人間らしかった楽しい想いが、ずっと脳裏を横切っていたため、牛〇先生の言葉は、すぐに自分のものとなった。

『よし、先ずは自分を育ててくれた旭区一帯に、お礼のために働かなければ』

紆余曲折しながらも、今こうして、旭区を中心とした地元密着型企業として、次世代のために、働けていることが、心から嬉しい。感謝の念に堪えない。

私は、たまたま、旭区という陸の孤島といえども、首都圏の中に位置していたので、TOKYOという日本の中心部に触れることも可能だった。
その一方で、いつの間にか、かつての自然は消えていき、都市化の波にさらわれた。
愛すべく偉大なる田舎では、なくなってきた。

近頃も、開発行為は進んでいますが、同時に深刻な空き家問題が日毎に加速している。
駅近でなければ、子供達も、そこから離れていってしまう現実。

混沌としてきた今のご時世だからこそ、心あるものは、それぞれの地元に尽力してもらいたい。
確かに、給与面では、首都圏には、絶対的に適わない。
また、娯楽・文化に触れる機会も、田舎では少なくなる。

然れども、自分を育ててくれた地元、先祖代々を育んでくれた土・海を、見直す生き方を、本気で考えて欲しい。

私の地元、横浜は、歴史に乏しい。開港してから大きく飛躍しただけで、地方の都市の歴史には、適わない点が多い。
先人が苦労して残してきた歴史的文化が、それぞれの地方都市には豊富に存在している。

それが、ややもすると消えかけている今、次世代を担う若者達に、その地元を明るく照らすべく尽力してもらいたいというのが、本心です。

その分、横浜市は地盤沈下しますが(一方で自然が蘇る)、あなた達の地元が盛り上がる。
文化・伝統工芸を大事に守って欲しい。新たな手法を取り交ぜながら。

私も、その分、地方へ遊びに行った際に、その土地ならではの様々な景色、風情、人情に触れることができる。
江戸時代が良いとは言いませんが、江戸時代以前には各地ならではの、それぞれの異国的な独立性があった。

グローバル化も大事だけれど、IT化の促進により、地方に居ながらも、TOKYOの息吹は感じられる。さらに、その土地ならではの文化を、TOKYOに、世界に、発信することもできるようになった。

次世代・我々中年世代も、一緒になって、少しずつ、変えていかないか!
この素晴らしき日本を、日本たらしめるために。