旭鎮守の八幡神社

旭区川井宿町にある【八幡神社】は、都岡町(川井からわかれて都岡町になりましたが、現在の都岡町・下川井町・矢指町・川井本町・川井宿町・上川井町は、三川井〈さんかわい〉と呼ばれる土地)で生まれ育ち、本籍もそこに在し、本社の今宿西町とは別にそこも所有している私としては、やはり、我が家の産土神としての想いが大きいです。

源氏の英雄的先祖として君臨する、八幡太郎義家(源義家)公が、前九年の役に赴くに当たって、この地にて弓矢の調練をして、戦勝祈願し、勝利後にこの地に祠を建てたのが始まりとされます。父 源頼義公と、鎌倉を出立して、東北へ向かうまで、長い時間を要しています。一陽来福のお守りで有名な、早稲田の穴八幡、その他の地で様々な伝説・逸話が残っていますが、

私の想像では、官軍という征討軍の称号は京都朝廷からもらえても、武力に長けた東国武士の力が絶対不可欠。ましてや、高望王から始まる桓武平氏系氏族や藤原系氏族が跋扈していて、源氏の拠点が東国にはまだない時代(平安時代後期)。

自分達が開拓した荘園に対して、それを守る意味で台頭しだしたばかりの武蔵七党をはじめとした武士は、基本的に自分の土地を奪われないために武力を蓄えはじめた黎明期だったと考えます。

源頼義・義家親子は、京都の都人だったため、東国(関東)の武士団は、彼等にすぐに組したとは考えにくい。そこで、源義家公は、弓の名手として京の都に鳴り響いた方でしたが、その当人に味方するかどうかを悩んでいたのではないだろうか。

そこで、義家公は、現八幡神社から都岡に広がる大矢場、下川井の矢場地区で、弓の調練をして、いや見せつけて、この辺りでは、都筑党(綴党・綴喜党)やその近辺の武士団が影ながら見守る中、盛大に【力】を見せつけたのだと思います。

要は、この将軍に付き従っていって、勝算はあるのか、命を賭しても良い将軍なのか、自分達の多少の犠牲を伴っても、余りある恩賞があるのかを、それを眺めながら彼等の力量を推し測っていたのではないだろうか。一族郎党の浮沈にかかわる事なので、打算的に考えざるを得なかったと思います。
そうした中で、頼義・義家親子に、付き従っていくという選択をしたのだろう。
つまりは、義家親子は、それに値するとこの地の方々は判断し従軍したのだろう。

それらの過程と、勝利を通じ、桓武平氏が勢揃いの東国において、後に繋がる源氏の棟梁、源頼朝公が、鎌倉の地を中心とした武家社会を創り出せた礎になったのだと考えます。

この八幡神社(別名 矢場神社)の宮司により、白根の白根神社、下川井の三嶋神社、上白根の稲荷社は、護られています。それぞれに、鎌倉街道中の道、時代は下って中原街道の要衝に、鎮座しています。

現在の旭区は、鎌倉殿の13人でも出ていましたが、勇智仁を備えた優れた悲運の武将と言われる畠山重忠公が、無実の罪で弑された土地(鶴ヶ峰)であり、秩父党である彼の従兄弟の榛谷重朝(小山田四郎重朝)公が、伊勢神宮へ寄進した榛谷御厨の領主でもありました。重忠暗殺の翌日に、鎌倉の地で弑されています。
鎌倉幕府草創期においては、大国武蔵で力を持っていて、さらに、徒歩でも鎌倉へ1日の旅程にある旭区、保土ヶ谷区(榛谷重朝の兄弟は、それぞれ町田市、保土ヶ谷辺りから川崎市を領有していた)という、執権北條家からすると将来の危険因子に見えただろうことは、想像に難くありません。