帷子川と矢指川の合流地点

水上から見て、左に帷子川(かたびらがわ)、右に矢指川(やさしがわ)。

源頼義の長男、源義家(八幡太郎義家)前九年の役に出陣した際に、途中、現在の川井八幡神社に宿営し、そこで弓矢の練習(恐らく東国武士を集めるための披露でもあったと思います)をして、現川井宿から、1.5㎞ほど離れた、現矢指町まで、矢が届いたという伝説から、矢指の名が現在も残っているようです。

他社建設会社様で、河床の整備工事を行っていたため、川が泥水になっているようでした。

ここの河川敷は、車が通行できず、安全なため、私が小学生の頃には、都岡小学校のマラソンコースでもありました。

この左奥の雑種地で、郷土研究クラブで、よく縄文土器を発掘していました。

少しだけ上流、下川井町の【食品館あおば】へ、駐車場から帷子川をまたぐ橋から上流を見ると、左側に新たに掘削された川で工事を続けています。

右側が本来の川の流れで、この先【下宿】のバス停付近に、南北をつなぐ【勝橋・凱旋時に名付けられたか】があります。さらにその上流、セブンイレブン裏辺りで、八幡神社のある川井宿町から流れる小川との合流点があります。

ここから見て左手に、【矢場通り】があります。中原街道のマック脇から、国道16号線へと続く、とても短い街道です。この辺り一帯を、今でも【小矢場】と呼び、
一方で、右側旧流の右側(都岡町下宿から、川井宿町八幡神社鳥居前一帯を、【大矢場】と呼びます。

およそ1000年ほど前の話ですが、この辺りは、東国と呼ばれ、田舎者扱いの東蝦夷の余韻を残し、前九年の役の時代には、東北地方は蝦夷で一括りにされていましたが、京都の貴族から見たら、当時の田舎者同志が、戦わされた悲しい事実を感じます。(源義家は日本一の弓取り、さらには、私財を投じて参戦した方々に恩賞を捻出した点からも、その後の武士から尊敬され、子孫の源頼朝による武家社会を作り上げるための伏線だったと考えます)

同様に、薩摩藩、長州藩が、明治維新の立役者になりましたが、彼らも、それぞれ九州地方・中国地方を切り取りながらも、領地を狭められ、長年、臥薪嘗胆の上に、実質的権勢を若者達が勝ち取った。

私が感じるのは、歴史は繰り返すで、東京を中止とした一極集中の首都圏も、いつまでも安泰とは思わない。WEBと、新型コロナにより、東京へ絶対に通わなければならないという神話も崩れ始めている。

各地方都市の過疎化が進む中、元来その地が持っている底力・資源・土地の利により、それらが復活する可能性が見え始めたことが密かに嬉しい。
同時に、とても住みやすい横浜(神奈川県)も安泰ではないので、この地ならではの【利】を見つめ直し、地方に出遅れないように励まなければならないと考えます。