鈴木裕氏、【昆虫少年の83年】に父のことが

父の従兄弟の横須賀市追浜の【鈴木裕】さんが、今年の2月5日に、亡くなられたらしい(家族葬)。

そして、送っていただいた花蝶風月 第181号にて、【昆虫少年の83年 -神奈昆と三昆研とともに-】で、ご本人が講演した内容が書かれています。
幾つもの著書があるなか、【Mushi Mezuru】の発行が有名らしい。

私も、小さい頃は、ほぼ毎年、追浜のおじさんの所へ、連れて行ってもらい、よく母から、『よく勉強して、おじさんみたいになりなさい』と、言われていたことを覚えています。何を勉強していたのかは、知らされていなかったか、私がボケーッとしていたかのどちらかです。

花蝶風月 第181号に、鈴木裕さんが、私の父小川名 英次のことを書いてくれていました。

父は、昭和14年生まれで、富士電機(株)川崎工場に通い続けた点と、手先が器用で、『輝明は、ブキッチョだな』と、言われつつも、余計な事は話をせず、ひたすら後姿を見せてくれた父で、こちらから聞き出しても、少年時代の事を、父から教えてもらったことがなく、直系の親族ながら、???の存在で、父の事は、周囲からの情報で、知ることが出来るくらいでした。

顔かたちは似ていますが、煩いぐらいにしゃべる私とは、方向性が真逆な感じがします。姉の方が、方向性は似ている。
今、考えると、父を戦争で早くに亡くし、男親として子供への接し方が分からなかったのかなと。
しかし、歳を重ねるにつれ、父の事を尊敬するように、なってきています。

以下、父の事を書いている箇所を、そのまま、書き写させていただきます。


英次君のこと
 1945年、日本の敗戦の年私は小学1年生であった。それまで追浜飛行場のある地の横須賀市追浜で、ほぼ終日、防空壕の中でヒコーキの絵ばかり描いていたが、入学した途端に疎開をすることになった。高学年の子どもたちは、集団疎開と称して各地に行かされ苦労をしたことを後年聞かされたが、私は縁故疎開で母方の実家のある横浜市保土ヶ谷区(現旭区)の農家に母と子どもたちはお世話になった。
 そこには男ばかり3人の子どもたちが居て、次男の英次君は私と同学年であった。5月末頃から彼に連れられて一山超えたお寺の本堂が教室であった小学校に通うようになった。
 英次君は勉強は得意ではなかったが、頑強な体格で野原や雑木林の中でも平気で入っていけるような子で、他の動植物にも詳しく、バッタやトンボの掴まえ方などを教えてくれた。夏には付近を流れる小川の最上部や至る所水田が広がる中で、ゲンゴロウやドジョウの捕まえ方も遊びの中で教わった。
 歩いて40分はかかる学校への行き帰りに、私を雑木林へ連れて行き、出てきた蛇を簡単に掴まえ、私に捕まえ方を伝授した。怖がっていた私もやがて蛇を素手で捕まえることが出来るようになっていた。
 遊んでいる子どもたちの頭上を時折、アメリカ軍の飛行機の編隊が飛び越してゆくのにも出会った。厚木飛行場へ向かっているのだというが、子どもたちには戦争の最中に居るという実感はほとんどなく、唯一、横浜大空襲があった時の夜空がいつまでも明るかったことが印象に残っている。
 英次君の所にお世話になったのは翌年の春までであったが、この時の経験が自然そのものに目を向けさせ、野原や雑木林で遊んだことで体力が付き、虫に興味を持ち現在まで続けている大きな要因になっていると感じている。文字通り遊びの師匠であった英次君は70代前半で亡くなり、一緒に遊んだ水田はすべてなく、今は家々が立ち並び昔日の面影はないが、近くへ行く度にその頃のことが思いだされる。


若い頃の英次君(20歳~25歳頃)

父、英次のことを、講演で話してくれた鈴木裕おじさんに、心より感謝すると同時に、ご冥福をお祈り申し上げます。

私が幼少から、誰も外で遊ぶ相手が居なくなるまでは、同じように近所に、私の師匠がいて、野原や雑木林、小川、水田脇と、虫を追い、掴まえ、蛇も捕まえ、楽しすぎて、暗くなるまで帰らずに、真っ黒の足で廊下を走っていたため、よく母に叱られていました。自然・虫・小動物が、大好きで堪らなかった時期。私にとっては、一番愉しかった夢の世界でしたが、なぜ、母に叱られるのかがよく解らなかった。しかし、そうした素行に対しては、一度として父に叱られたことが無かった点が、今回の鈴木裕さんのお陰で、よく理解できました。

父のように、昆虫の名前を覚える頭の作りをしておらず、ただ単純に虫と戯れるのが好きだった。

一方、長男の輝竜が、まわりから『昆虫博士』と言われるほど、虫が大好きで、昆虫の名前をよく知っていた。私との違いは、名称や特徴、特性を、昆虫図鑑で調べては、よく知っていた点。
誰に似たのだろう?と、ずっと思っていましたが、彼の祖父の英次さんの血を色濃く受けていたのですね。私は、名前を覚えられないから、遺伝子の中継ぎ役。

私は仕事上、シロアリさんや、赤アリさんなど、家の木材を食して、家の寿命を縮める彼らを、思いをこらえながら、消毒していますが、少年時代は、悪気は無いながらも、無用な殺生もしすぎた反省からか、虫さんを自らの手で弑すことはしていません。

害虫と益虫の意味は理解していますが、一方で、時代・生物からの新たな発見等により、これまで悪者扱いだった生物が、良い生物になったり、逆もしかりで、人間様からの目線は常に上からで、小さい子供には、しゃがんで同じ目線で話すという教え を、私自身は虫さん達にも応用しています。イナゴの大群が、農作物を食い尽くすことは、大昔から大問題ですが、彼らは増えすぎて、食べるものを無くし、一気に数を減らし元の数に戻る。外来種でそこらじゅうが、セイタカアワダチソウだらけだった時期もありましたが、他に勝って生存競争を生き残るために、土中に毒を出していましたが、その毒で、自分自身が害され、個体数は驚くほど数を減らし、背丈も小さくなり、日本の国土のなかの一種になっています。
害虫・益虫の線引きは極めて曖昧で、困ります。
要は、虫さん、他の生物とは、できる限り仲良くやっていきたいものです。