先人方が作ってきた風景

わいわい市寒川店に、地場産野菜を買いだしに行き、その目の前に広がっている水田。

日本では、似たようなこの景色をどこでも見られ、当たり前のものとして感じていますが、
1000年以上、稲作が始まってから、先人方が、汗水たらして、絶やすことなく稲作を続けられてきた成果。
自然を生かしながら、自然の傷みが少ない形で。
ここ最近、世界中で騒がれているSDGsな社会は、ここでは長年、当たり前に営まれてきた。
それを当たり前に続けられてきた先達に、心より頭が下がる思いです。

近頃は、乾田直播農法により、水田に常に水を張らずに、稲が本来持っている根を伸ばして少ない中から水を得ようとする能力の手助けをして、水不足の地域でもお米が収穫できる農法が、徐々に進んでいますが、稲作がされていた縄文時代・弥生時代から、少しづつ農法が変化し発展してきたことからすれば、それも一つの試みであり、変化なのだと考えます。

レイライン上に作られ、歴史的経緯のなかで意味のある土地に選ばれただろう寒川神社。
子供の頃は、神社と言えば、山の上や小高い場所にあるという印象だったので、始めて参拝した時は不自然に感じたのを覚えています。

それにしても、美しい造形美。
長年の様々な進化、発展の末に、このような神社建築が形成されてきたのでしょうが、その時代その時代の方々の想いが凝縮されて、今の形になったのでしょうが、素晴らしい。

一方で、そもそも日本では、大昔は、大きな石や、山、滝などが、神が住まう(或いは降り立つ)場所・信仰の対象として敬われ、畏れられ、そこに建築物はほぼ無かったらしい。
その一例として、非常に古い神社とされる大和国一之宮の大神神社(みわじんじゃ)は、現在も、山そのものが信仰の対象であるため、建築物としての社は無く、あるのは拝むための拝殿のみらしい。

一方で、歴史を話される小名木(おなぎ)さんが言われるには、神社の社は、お米の貯蔵庫としての働きもあったと。
秋に収穫された新米は、社内に備蓄され、一般の方々は、備蓄米(古米)から食すことにより、歴史上何度も悩まされた飢饉時に備えての策だった点もあるらしい。

昔の保存技術でも、お米は、水に濡らさず、調湿管理していけば、長持ちする貴重なたんぱく源として、古古米程度までは保存できたらしい。

乗客数が増加中で、単線ながらドル箱路線になりつつある相模線のE131系電車。

JR相模線と、相模鉄道の相互乗り入れを、相模線の地域住民が要望しているみたいですが、単線での運用方法は簡単ではないでしょうが、実現したら嬉しいですね。
かつての相模鉄道創業の線路を、現在の相模鉄道の列車が走るのも、相模線が現在の相模鉄道の線路を走る姿も。見てみたい。