保土ケ谷区史・旭区史を良く調べていらっしゃる

平安末期から、横浜市保土ケ谷区(旭区も元保土ケ谷区)を中心に、ある程度広範囲の土地を領収した 榛谷重朝(はんがやしげとも)。
史料が非常に少なく、今と違って様々な地域の図書館を巡らなければならない学生時代のに、【榛谷御厨について】という稚拙な卒業論文を書きました。
同じ歴史学科卒の長男からは、鼻で笑われています(笑)

ここは、旭区上川井町に鎮座する上川井神明社(少し前までは、確か川井神明社と呼んでいた)。
ここに、物資が集まり、伊勢神宮まで行っていたという。

榛谷御厨(はんがやみくりや)は、武士が大きな荘園を持つことをまだ禁じられていた時の、抜け道として、伊勢神宮に土地を寄進(年に僅かばかりの絹・紙・年貢など)することにより、この地を治めることを許された。

地名の大元は、今も二俣川のさちが丘に『字 あざ』、バス停名として残る【半ヶ谷】。
保土ケ谷区神戸町にある、神明社でも、ご由緒の中で書き記されていますが、神様が榛谷の峯に影向し、川井に鎮座、その後戻って、半ヶ谷に。最終的に、前線基地かつ海運を握れたであろう保土ケ谷区神戸に鎮座し、今に至る。

倭名類聚抄(和名抄・倭名抄・わみょうしょう)、新編武蔵風土記等に、【幡屋郷・はたのやごう】の名前で、ここら辺の土地は表されている。

ふと、久しぶりに郷土史に触れていたら、良いものを見つけました。
【保土ケ谷 郷土史】
その中の、【榛谷御厨の研究】昭和10年度史蹟調査報告書のなかで、磯貝 正 先生が、立派な研究をされています。以前に読んだ記憶があります。私はこれも参考にしつつ、新たな展開を試みた事を覚えております。

横浜市の歴史(特に中部から北西部へかけて・旧都筑郡とその周辺)を、勉強する方は、これを読まずに本当の現横浜市を語れない。数少ない歴史的産物の少ない、幕末以前に輝いていた時期です。

伊勢神宮でも、内宮と外宮があるのは皆さまにも周知のことですが、伊勢神宮内の文献によれば、この御厨の年貢を納めたところは、伊勢神宮内宮という史実がありますが、

この神社、祭神が、私も尊崇する國常立尊(くにのとこたちのみこと)なんです。
内宮ならば、天照大神(あまてらすおおみかみ)な筈。
外宮ならば、豊受大神(私が考えるに、天照大神が祭祀における、日本の中心人物だった以前には天照國照ニギハヤヒ大神が、中心的存在だったと考えます)
それをも飛び越えて、さらに上古の國常立尊様。どういういきさつかは分かりませんが、昔からの口伝等による隠された事実があるように感じます。

磯貝正先生も、少しだけ触れていますが、当時の榛谷御厨の版図(勢力地図)は、私が考えるに、保土ヶ谷区、旭区は当然のこと、西区の一部(かつての陸地)、神奈川区の一部、港北区、緑区、都筑区、青葉区あたり一帯だったと考えます。
一方南方は、磯貝先生は、現戸塚区秋葉町の近藤家から、榛谷四郎重朝に嫁入りしている文献から、その辺り一帯まで領有していたか、勢力が及んでいたかもしれないと。
確かにその考えは、政略結婚が当たり前の武士の世では、勢いが及んでいたことは確かだと考えます。

古代から、関東地方は、アメリカで言うところの、西部開拓運動と近い所があり、関東に土着・開墾した人々が、小競り合いを繰り返しながら、平安期には桓武平氏を中心とした【武蔵七党+α】の下級武士(中央から見た際の)が、逞しく育った地であり、兵は東国(東国兵は強い)という言葉が生まれ、山坂が多い土地には、多くの勅使牧が発生。
平安末期に矢倉沢往還、中原街道が整備されるまでは、この辺りは、中山道を通じた形での文化の流入が見え、先進文明は北側からやってきた歴史があります。そして、生まれた武士団は都筑党(綴喜党)。軍馬を鍛えられる点において、武士にとっては豊かな地だったと思われます。
つまりこの辺りは、相模湾からの文化と、中山道からの文化がぶつかり合う最後の地で、昔の言葉で言えば後進国。そして、こぞって神奈川最後の陸地の奪い合いの心理がひしめいていたと考えます。
 

平安末期に、それを確立させたのが、畠山重忠公で有名な、秩父党桓武平氏。写真は、北條家に謀殺されながらも、最後まで勇智仁の武将の代表らしく、武蔵総検校の立場としては果てしなく少ない数の、134騎で戦い抜いた重忠公の首塚(旭区役所脇・彼の館、埼玉県川本町菅谷の館は、学生時代にたんまりと見てきましたが、埼玉県が輩出した最高の歴史上人物なので、翔んで埼玉に甘んじていないで、埼玉県民は誇りを持って下さい。旭区民の方が彼を崇敬しているかも)。 

首塚の云われ。
 

町田市の小山田家の分家が、橘郡(南部は弟の重朝に譲ったのでは)~川崎市へは、稲毛家。その残りを小山田有重の四男 榛谷四郎重朝が領有しました。
これは、秩父党が(かつて東国武士の英雄 八幡太郎義家公〈出自は京都〉が拠点とした鎌倉を目指してか)南進政策をとった中での、最南端地域。

こんな感じで我が郷土を眺めております。
もっと、有力な事実、歴史的資料が発見されたら面白そう。

現旭区の【幡屋郷】は、かなり以前に、何かの文献で見ましたが、そこに住む人々は、農業を営むことなかったと。 
では、何で生計を立てていたのか?
養蚕か? 麻? 飛び越えて、秦の徐福の末裔の一部が潜んだ地、或いは隋を間接的に滅ぼした高句麗の末裔若光の子孫(現神奈川県大磯を中心に関東に、影響を及ぼしてきた、現埼玉県日高市高麗へ移動させられた過程で)の隠れ家だったりして。
何か、神奈川県秦野と似ている。秦族の地か?

重忠公の傍らで、アブラゼミが気持ちよく鳴いていました。